誰も興味ないと思いますが、創作について語りたいと思います。
わたしが初めて書いた作品では、大学生の時のことを書きました。自分が若い頃のことを記念として残したいと言う気持ちがあったのでしょう。
それは人に見せられるようなものではありませんでした。今でも人に見せられるようなものではないかもしれませんが。
しばらくの間、自分の実体験を素材にした小説を書いていました。ただ、それらはとてもつまらない作品でした。誰にも見せていません。なんだか自由に書けなかったのです。実体験は自分にとってあまりにリアルすぎて、逆に自由に書けないような気がしたのです。
それから、書き方を変えました。以前は予め何も考えず実体験を書いていましたが、書く前に設計図(プロット)を作り、その設計図を基に書くようになりました。
設計図を作り始めてわかったことは、小説は執筆よりも着想が最も大切だということです。
わたしは小説の作成には大きく分けて3段階あると思います。
① 着想
② 執筆
③ 推敲
個人的意見として、作品が成功するかどうかの鍵は、着想にあるではないかと思います。
(もちろん、わたしは一度も成功らしい成功はしていないですが……笑)
やはり中身がちゃんと面白くないとどうしようもないですし、作品の独創性や新規性など、作品の評価を決めるところは、着想の段階にあると思います。だからわたしは着想に最も多くの時間をかけます。
着想に時間をかれば、それは果たして書くに値するかどうかを考えるようになります。
書くに値するかどうかは、まず、自分にとって書くに値するのか。次に、客観的に書くに値するかどうかです。
どんどんお話の展開を思いつく場合、それは自分にとって書くに値するテーマだと思います。それが一番大切です。自分が満足しないと書く意味はありませんから。
客観的に書くに値するかは、知識が肝心だと思います。引き出しが少ないと、着想も小さなものになってしまいます。
人によっては②執筆が一番大切だと考えるでしょう。しかしわたしは、執筆はどうしようもないところと言うか、とにかく頑張ってただ書いていくしかないと思います。個人的には、一番つまらないところです。
執筆は即興の要素が強く、着想のように時間をかけたから良くなるというものではないと思います。ここはインプロビゼーションです。直観に従って前に進むしかありません。(少なくともわたしは。)
ただ、その作品の内容に合った文章のスタイル、雰囲気がありますから、そこは確実に押さえて書くべきでしょう。
あとは、リズムが大切だと思います。文法的に正しいかどうかよりも、読み心地がいいかどうかを意識しています。
また、わたしは文体にはあまり拘りません。拘っても仕方ないし、拘りすぎると逆に作品を小さくすると思うからです。
文体について、高橋源一郎さんが面白いことを言っていました。文体とは 「look at me」であると。
要するに、文体とは「わたしを見て!」という意識の現れなのです。わたしをどう見せたいのか、という作者の意識的戦略です。したがって文体に拘ることは作者のナルシシズムの現れでもあります。
(ナルシシズムがあること自体は悪いことではありません。)
推敲は、わたしは本気で書く場合は、最低4回は行います。推敲が一番楽しいです。主に言葉を削ります。少しづつ文章が正確になっていくのが楽しいのです。
ただ、正確になっていた分、作品の中身がよくわかってくるため、つまらない作品ならこの時に「あ、つまらない」と気づいてしまいます笑。
また高橋源一郎さんの言葉ですが、彼はワナビに対してこんなことを言っていました。
「作品は自分へのギフトなんだから、 それで満足しないといけない」
もし「自分へのギフト」以上の満足を得たいと思うなら、一定の技術を身につける必要があると思います。
故・橋本治さんが「小説は技術が大切」と言っていました。まず技術的完成を目指し、その次に文学的意味を追求べきだと。
だからわたしは他人の作品の拝読するときもまずは技術を見るようにしています。
以上はワナビの戯言ですから、すべて無視してください。
わたしが初めて書いた作品では、大学生の時のことを書きました。自分が若い頃のことを記念として残したいと言う気持ちがあったのでしょう。
それは人に見せられるようなものではありませんでした。今でも人に見せられるようなものではないかもしれませんが。
しばらくの間、自分の実体験を素材にした小説を書いていました。ただ、それらはとてもつまらない作品でした。誰にも見せていません。なんだか自由に書けなかったのです。実体験は自分にとってあまりにリアルすぎて、逆に自由に書けないような気がしたのです。
それから、書き方を変えました。以前は予め何も考えず実体験を書いていましたが、書く前に設計図(プロット)を作り、その設計図を基に書くようになりました。
設計図を作り始めてわかったことは、小説は執筆よりも着想が最も大切だということです。
わたしは小説の作成には大きく分けて3段階あると思います。
① 着想
② 執筆
③ 推敲
個人的意見として、作品が成功するかどうかの鍵は、着想にあるではないかと思います。
(もちろん、わたしは一度も成功らしい成功はしていないですが……笑)
やはり中身がちゃんと面白くないとどうしようもないですし、作品の独創性や新規性など、作品の評価を決めるところは、着想の段階にあると思います。だからわたしは着想に最も多くの時間をかけます。
着想に時間をかれば、それは果たして書くに値するかどうかを考えるようになります。
書くに値するかどうかは、まず、自分にとって書くに値するのか。次に、客観的に書くに値するかどうかです。
どんどんお話の展開を思いつく場合、それは自分にとって書くに値するテーマだと思います。それが一番大切です。自分が満足しないと書く意味はありませんから。
客観的に書くに値するかは、知識が肝心だと思います。引き出しが少ないと、着想も小さなものになってしまいます。
人によっては②執筆が一番大切だと考えるでしょう。しかしわたしは、執筆はどうしようもないところと言うか、とにかく頑張ってただ書いていくしかないと思います。個人的には、一番つまらないところです。
執筆は即興の要素が強く、着想のように時間をかけたから良くなるというものではないと思います。ここはインプロビゼーションです。直観に従って前に進むしかありません。(少なくともわたしは。)
ただ、その作品の内容に合った文章のスタイル、雰囲気がありますから、そこは確実に押さえて書くべきでしょう。
あとは、リズムが大切だと思います。文法的に正しいかどうかよりも、読み心地がいいかどうかを意識しています。
また、わたしは文体にはあまり拘りません。拘っても仕方ないし、拘りすぎると逆に作品を小さくすると思うからです。
文体について、高橋源一郎さんが面白いことを言っていました。文体とは 「look at me」であると。
要するに、文体とは「わたしを見て!」という意識の現れなのです。わたしをどう見せたいのか、という作者の意識的戦略です。したがって文体に拘ることは作者のナルシシズムの現れでもあります。
(ナルシシズムがあること自体は悪いことではありません。)
推敲は、わたしは本気で書く場合は、最低4回は行います。推敲が一番楽しいです。主に言葉を削ります。少しづつ文章が正確になっていくのが楽しいのです。
ただ、正確になっていた分、作品の中身がよくわかってくるため、つまらない作品ならこの時に「あ、つまらない」と気づいてしまいます笑。
また高橋源一郎さんの言葉ですが、彼はワナビに対してこんなことを言っていました。
「作品は自分へのギフトなんだから、 それで満足しないといけない」
もし「自分へのギフト」以上の満足を得たいと思うなら、一定の技術を身につける必要があると思います。
故・橋本治さんが「小説は技術が大切」と言っていました。まず技術的完成を目指し、その次に文学的意味を追求べきだと。
だからわたしは他人の作品の拝読するときもまずは技術を見るようにしています。
以上はワナビの戯言ですから、すべて無視してください。
コメント
コメント一覧 (2)
keioj
がしました
コメントありがとうございます。
おっしゃる通りですね。
執筆の段階で着想の段階でなかったことでどんどん湧き出てきます。書いているうちに初めの構想からズレていく。そこを統制するのか、あるいはなすがままにするのか、小説を書くスリルのひとつかもしれません。
keioj
がしました