「リアリティがない」
 作品を批判するときに聞く言葉です。本当によく聞きます。極端な話、作品を読んでなくても「リアリティがない」と批判できます。
 なぜなら、小説は所詮、作り物のですから、どんな作品にもリアリティがない部分は必ずあるからです。
 氾濫するリアリティという言葉。小説におけるリアリティとは何でしょう?
 わたしは「読者にとって本当らしく感じるもの」がリアリティだと思います。

 まず、リアリティとは、誰にとってのリアリティなのか?
 少なくとも、作者にとってのリアリティではないです。作者が本当だと思っていることを書くのではない。
 リアリティがないと批判されると「これは自分が体験したことだ」と反論したり、「自分はこの分野の専門家だから正しいのだ」とやり込めようとしたりする人がいます。
 たしかに、作者にとっての真実は大切です。それは尊重すべきことです。人それぞれ自分の中の真実というものがあるからです。
 小説を書くとは、世界を組み替える作業です。自分の中にあるものが世界の素材になります。だから本来的に、小説とは他人に伝わらないものなのです。そういう意味で、作品は自分のコントロール下にありません。作品とは、他者なのです。
 他人に伝わらないし、自分でコントロールできないものなのに、それが他人にとっても意味を持つ時に、リアリティなるものが生まれます。
 作者にとって真実であることは当たり前ですから、読者=他人にとって真実でないといけません。
 しかし、自分にとっての真実であり、かつ、他人にとっても真実である。そんなことはめったにありません。だから小説を書くのは難しいのです。

 また、小説のリアリティは、厳密な真実とは違います。「本当らしい」程度でいいと思います。それに、厳密な真実よりも、本当らしい話のほうが説得力を持ちます。
 だから取材を行えばリアリティが出るわけではないと思います。

 リアリティについて、ナサニエル・ホーソーンが面白いことを言ってます。

 小説は、人間の心の真実から外れない限り、何を書いても自由だ。
 
 リアリティさえあれば何を書いても人に感銘を与えますが、リアリティがなければ何を書いてもダメなんだと思います。 
 そして「人間の心の真実」は無限に多様ですから、リアリティの形も無限に多様です。あるひとつのタイプがあるわけではないのです。