誰も読んでいない伝言板に突如登場したウォッチャー氏の正体について、考察しましょう。
 わたしの推測では、ウォッチャー氏の中の人は、おそらくA氏ではないかと思います。
 文体や主張がA氏と似ています。たとえばラノベを見下している点、鍛錬場の作品を「社会性がない」と批判している点、ムキになって私を罵倒笑している点、その他多数の類似点があります。
 さて、ウォッチャー氏の言っている作品の「社会性」とは何でしょう?

 >>純文学でも「破戒」「蟹工船」「橋のない川」など社会派小説は多く有るし、直木賞の分野として扱われる小説の多くは、人間の心理と共に社会状況を重要なテーマとして扱っています。

 珍しく固有名詞を挙げていますね。たしかに「破戒」「蟹工船」「橋のない川」は、被差別部落や社会主義等、現実の社会的テーマを扱っています。
 どうやらウォッチャー氏は、ある特定のテーマを扱っているかどうかで、作品に社会性があるかどうかを判断しているようですね。
 しかし、これは、テーマ主義と呼ばれる考え方です。結局、突き詰めていくと、ある特定のテーマを扱っていれば「文学」であり、扱っていなければ「文学」ではないという考えに繋がります。
 私は、扱うテーマ、そのジャンル(ラノベ、SF、ファンタジー等)、作品の舞台によって、社会性があるかどうか決まると思いません。
 ラノベやファンタジーでも社会性がある作品はたくさんあります。たしかにそれらは現実の世界が舞台になっていなかったり、直接わかりやすい社会的テーマ(差別や戦争等)を扱っていません。
 しかし、現実に存在する差別や戦争を直接描かなくても、差別のある状況や戦争のある状況を描くことができます。換言すれば、重たい現実を別の何かに置き換えていく作業です。そうしたほうが人は、メッセージを受け取りやすくなります。深く心の中に入っていくことができます。
 ある人間的状況を描くことができていれば、それは社会性があると考えます。どうやらA氏は、社会的テーマを扱っていれば社会性があると考えているようですが、そんな単純な話ではありません。どんなに重たい体験をしても、それを直接そのまま書けば人に伝わるわけではない。
 私はA氏の作品を読んで、どうやらこの人は歴史を直接書けば歴史小説になり、歴史は現実にあった出来事の話だから、自分の作品は社会性があり文学である、と単純に考えているのではないかと疑っていました。
 私の疑いが確信に至ったのは、A氏が「自分は史実に忠実に書きたいのだ」との書き込みを見た時です。
 史実に忠実に書きたい、と考えている時点で歴史小説の書き手としては大きな勘違いをしていると思います。
 A氏の小説が人に受け取ってもらえない最大の理由がそこにあります。
 つまり、A氏は、歴史上の出来事からある人間的状況を見出し、それを自分の中で濾過して人に伝わる形にしていこうとしていません。A氏は小説の作り方につまづきがあるのです。
 歴史を扱っているから人に読まれない、というわけではありません。テーマは関係ないのです。A氏の作品は、たとえ歴史=現実の出来事を扱っていようとも、そこにある人間的状況を描けていない点で「社会性がない」と私は考えます。

 しかし、ウォッチャー氏の社会性についての考え方がどうあれ、自分の考える素晴らしい作品を書けばいいと思います。
 誰もウォッチャー氏に「書くな!」と言ってません。ごはんに「社会性のある作品」が少ないと思うなら、自分がそれを書けばいいだけです。それで人に認められれば、ウォッチャー氏が正しいということになります。

 とはいえ、ウォッチャー氏(A氏?)の意見は尊重したいと思います。どんな人にも意見を言う自由がありますから笑。